手塚治虫の代表作「鉄腕アトム」が国産初のテレビアニメとして放映されたのは
1963年(昭和38年)。その主役のアトムの声を演じたのが、浦和で生まれ育った
清水マリさん。今も精力的に活動する清水さんが自伝「鉄腕アトムと共に生きて」を
上梓したので、話を聞いた。
浦和駅東口に位置する現在の浦和区本太で昭和11年に生まれ、仲本小学校、原山中学校、
県立浦和西高校に通った清水さん。当時の浦和には田畑が多く、台風が来ると藤右衛門川
が溢れて、近所の農家が自前の手こぎ船で渡らせてくれたという。
父親は俳優の清水元。清水さんが幼少のころは劇団の俳優として、日本軍の慰問公演の
ためほとんど家には帰らず、たまに帰った時には膝の上にのせて可愛がってくれた。
母親は身体が弱かったが、三越の裁縫部にいたほど裁縫が得意だった。
活発な清水さんは、中学生の頃に左利きだったことで、顧問の教師に勧誘されて
ソフトボール部に入り、投手として鍛えられた。しかし、幼いころから女優に憧れて
いた清水さんは、高校には演劇がやりたいと男女共学の浦和西高に進む。
その後、俳優座養成所に入り、浦和から六本木にある稽古場まで通った。
同期には俳優の田中邦衛がいた。あの独特の語り口は当時からのもので、人柄もよく
仲間の人気者だったとか。
劇団・新人会に入り、研究生として裏方の仕事に走り回っていた頃に、テレビアニメ
「鉄腕アトム」のパイロット版に声を入れる仕事が舞い込んだ。この時に初めて
手塚治虫氏と会うのだが、清水さんがアトム誕生のシーンの声を演じると「アトムに
魂が入った」と大喜びで、手を力強く握ってくれた。清水さんはこのことを今でも
よく覚えている。その後、オーディションもあったが、手塚氏のもつアトムの
イメージに合ったのが清水さんだったのか、アトムの声は清水さんに正式に決まり、
1963年(昭和38年)1月から4年間演じ続けた。
清水さんの手塚氏の印象は、常にやさしく腰の低い人。打ち合わせの際にも隣の
席に座らせてくれたが、他から聞くと、プロ意識が高く、時に気難しく、負けず
嫌いな面もあったらしい。その手塚氏から、アトムの声を演じるに当たっては
「女の子っぽくならないよう、小学5年生の男の子をイメージして演じて欲しい」と
求められたが、ほぼ地声で演じられたという。
当時の吹き替え作業は、今のような機材もなく、誰かが閊えるとやり直しとなるため、
とても緊張感があった。また声優同士も協力して必死に演じたので、共演者同氏はみな
仲が良かった。また、今の声優は、失敗してもその部分から取り直すこともできるため、
とても楽になったとも。
ロボットのアトムが風邪を引くわけもないため、鼻声になることも許されないと、体調を
崩しそうになると、早めに薬を飲むようになったのは、このころからの習慣。
アトムは当初2年間の放映予定で、終わる頃に清水さんは妊娠したが、人気が高く2年間
放映が延長されることになり、8回分は代理が立った。
清水さんは、アトムの声のほかに、近年実写版も放映された『妖怪人間ベム』のなかの
妖怪少年ベロの声も演じている。アトムは明るい世界の主人公で、ベロは妖怪という
暗い世界の主人公だったが、共に正義感のある少年だったので、清水さんに是非演じて
欲しいというオファーだった。本人としてもで、アトムと対極のヒーローだったため、
ずいぶんと工夫し、これが声探しの原点になった。
今も声優を目指す若い人を指導している。長年の声優生活の実感として、若い人にも
基本の大事さを伝え、その訓練を繰り返している。
そのほか、市内の公民館で活動する一般市民による朗読の会の指導や陶芸や俳句
など、精力的に活動する清水さん。そのエネルギーの源は、何にでも興味を持つ
ことだと。いろんなことに首を突っ込み、頼まれたら断らないため、今も仲本小、
原山中、浦和西高の同窓会の幹事も務めている。「大変なこともあるが、良い
勉強をさせてもらっていると前向きにとらえ、何でも楽しんでいる」と。
【さいたま朝日2015年8月号より】
コメントはありません。